(7)
「ああ、メロス様」
うめくような声が、風とともに聞こえた。
「誰だ」
メロスは走りながら尋ねた。
「フィロストラトスです。
あなたのお友達セリヌンティウス様の弟子です」
その若い石工も、
メロスの後ろについて走りながら叫んだ。
「もう、駄目です。無駄です。
走るのは、やめてください。
もう、あの方を助けることはできません」
「いや、まだ日は沈んでいない」
「ちょうど今、
あの方が処刑されるところです。
ああ、あなたは遅かった。
残念です。
ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」
「いや、まだ日は沈んでいない」
メロスは、胸が張り裂ける思いで、
赤く大きな夕日ばかりを見つめていた。
走るより他に、どうしようもない。
「やめてください。
走るのは、やめてください。
いまは、ご自分の命が大事です。
あの方は、あなたを信じていました。
処刑されると決まって、広場に引き出されても、
平気でいました。
王様が、あの方に何を言っても、
メロスは来ます、とだけ答え、
あなたを信じつづけていました」
「それだから、走るのだ。
信じられているから走るのだ。
間に合うか、間に合わないかは、問題ではないのだ。
人の命も問題ではないのだ。
私は、なんだか、もっと恐ろしく大きなもののために走っているのだ。
ついて来い! フィロストラトス」
「ああ、あなたは気が狂ったのか。
それでは、思い切り走ってください。
ひょっとしたら、間に合うかもしれません。
走ってください」
まだ太陽は沈んでいない。
最後の力を振り絞って(*)、メロスは走った。
メロスの頭は、からっぽだ。
何一つ考えていない。
ただ、何か大きな力に、ひきずられて走った。
太陽は、ゆらゆらと地平線に沈んでいき、
まさに、最後の一かけらの光も、消えようとした時、
メロスは、風のように広場に飛び込んだ。
間に合った。
「待て。
その人を殺してはならない。
メロスが帰って来た。
約束のとおり、いま、帰って来た」
と、大声で広場の人々にむかって叫んだつもりであった。
が、声が出なかった。
誰も、彼が到着したことに気がつかない。
すでに高い柱が立てられ、
縄で縛られたセリヌンティウスは、
徐々に、釣り上げられてゆく。
メロスは、それを見ると
最後の力を振り絞り、
さっき、激しく流れる川を泳いだように
人々の中を、必死で進んだ。
「私だ!
殺されるのは、私だ。
メロスだ。
彼を人質にした私は、ここにいる!」
と、かすれた声で、精一杯叫びながら、
釣り上げられてゆく友の両足に
しがみついた。
人々は、大きな声をあげた。
許してやれ、許してやれ、と口々に叫んだ。
そして、セリヌンティウスの縄は、ほどかれたのである。
「セリヌンティウス」
メロスは、眼に涙を浮かべて言った。
「私を殴れ。
ちから一ぱいに、ほほを殴れ。
私は、途中で一度、悪い夢を見た。
君がもし、私を殴ってくれなかったら、
私は君を抱きしめる資格さえないのだ。
殴れ」
セリヌンティウスは、
すべてを理解したというように、うなずき、
広場一ぱいに鳴り響くほど、大きな音で
メロスの右のほほを殴った。
殴ってから優しく微笑んで言った。
「メロス、私を殴れ。
同じくらい強く、私のほほを殴れ。
私はこの三日の間で、たった一度だけ、
ちらりと、君を疑った。
生まれて、はじめて君を疑った。
君が私を殴ってくれなければ、
私は君を抱きしめることができない」
メロスは、腕に力を入れて、
セリヌンティウスのほほを殴った。
「ありがとう、友よ」
二人は、同時に言い、
強く抱き合った。
それから、喜びのあまり、
大きな声を出して泣いた。
人々の間からも、
泣いている声が聞こえた。
王ディオニスは、人々の後ろから、
二人の様子を、じっと見つめていたが、
やがて、静かに二人に近づき、
こう言った。
「おまえらの望みは、かなったぞ。
おまえらは、わたしの心に勝ったのだ。
人を信じるのは大事なことだとわかった。
どうか、わたしも、仲間に入れてくれないか。
どうか、わたしを、おまえらの仲間の一人にしてほしい」
人々から、喜びの声が、どっと上がった。
「万歳、王様万歳」
ひとりの少女が、
赤いマントをメロスに持って来た。
メロスは、意味がわからなかった。
セリヌンティウスは、メロスに教えてやった。
「メロス、
君は、はだかじゃないか。
早く、そのマントを着なさい。
このかわいい、お嬢さんは、
君のはだかを、みんなに見られるのが、
恥ずかしいんだよ」
勇者は、顔が赤くなった。