(5)
眼が覚めたのは
翌る日の夜明け前である。
メロスは飛び起きた。
……しまった、寝過ごしたか、
いや、まだまだ大丈夫、
これからすぐに出発すれば、
約束の時刻までには十分間に合う。
きょうは、ぜひとも、あの王に、
人を信じることの大切さを見せてやろう。
そうして、笑って死刑になってやる。……
メロスは、ゆうゆうと準備をはじめた。
雨も、少し小降りになっているようである。
準備は出来た。
メロスは、両腕を大きく振って、
雨の中を、矢のように走り出した。
……私は、今晩、殺される。
殺されるために走るのだ。
身代わりの友を救うために走るのだ。
王の間違った心を正すために走るのだ。
走らなければならない。
そうして、私は殺される。
若くても、名誉を守ってみせる。
さようなら、ふるさと。……
若いメロスは、つらかった。
何度か、立ちどまりそうになった。
えい、えい、と大声をあげて
自分を叱りながら走った。
村を出て、野を横切り、森をくぐり抜け、
隣の村に着いた頃には、雨も止み、
日は高く昇って、そろそろ暑くなって来た。
メロスは額に汗をかきながら、思った。
……ここまで来れば大丈夫、
もはや故郷への未練はない。
妹たちは、きっといい夫婦になるだろう。
私には、いま、なんの心配もない。
まっすぐに王の城に行けば、それでよいのだ。
そんなに急ぐ必要もない。
ゆっくり歩こう、……と
いつもの、のんきな気分になって
メロスは、好きな歌をいい声で歌い出した。
しばらく、ぶらぶらと歩いていたメロスに、
大変なことが起きた。
メロスの足は、突然、とまった。
前方の川を見ると……。
きのうの、はげしい雨で
川はあふれ
濁った水が勢いよく流れ、
橋はすっかり壊れていた。
彼は驚きのあまり、
動けなくなった。
あちこちを見回し、
また、大きな声で、叫んだ。
渡し舟は、残らず波で流されてしまい、
どこにもない。
波はいよいよ、はげしくなり、
まるで、海のようだった。
メロスは、川岸にうずくまり、
泣きながら、手を挙げて、
ゼウスに向かって祈った。
「ああ、助けてください。
時は過ぎて行きます。
太陽は、あんなに高くのぼっています。もう真昼です。
あれが沈んでしまわないうちに、
王の城に行き着くことができなかったら、
親友が、私のために死ぬのです」
川の流れは、
メロスの叫びを馬鹿にするかのように、
ますます激しくなっていく。
波は重なりあい、次第に大きくなっていく。
そして、時間もすぎていく。
メロスは覚悟した。
……泳ぎ切るより他に方法はない。
ああ、神々も、見ていてください!
この激しい流れにも負けない、
愛の強い力を。……
メロスは、勢いよく流れに飛び込み、
大きな蛇のように荒れ狂う波を相手に、
必死で戦い始めた。
押し寄せてくる波に向かい、
全身の力を使って、
夢中で泳いでいるメロスの姿を見て、
神も、哀れに思ったのか。……
押し流されながらも
反対側の岸の木の幹を、何とか、つかむことができたのである。
ありがたい。
メロスは、すぐに、また、先を急いだ。
少しの時間も、無駄にはできない。
太陽は既に西へ傾きかけている。
メロスは荒い呼吸をしながら
山に登った。
のぼり切って、ほっとした時だった。
突然、目の前に山賊の集団があらわれた。
「待て!」
「何をするのだ。
私は、日が沈むまでに、
王の城へ行かなければならない。
放せ!」
「そうはさせない。
持っているものを全部、置いて行け」
「私には、いのちの他には何もない。
その、たった一つの命も、
これから王にくれてやるのだ」
「その、いのちが欲しいのだ」
「さては、王の命令で、
ここで、私を待ち伏せしていたのだな」
山賊たちは、返事もせずに
一斉に、こん棒を振り上げた。
メロスはひょいと、からだを折り曲げ、
鳥のように飛び上がり
近くにいた一人を倒した。
そのこん棒を奪い取ると、
「気の毒だが、正義のためだ!」
と叫び
山賊たちに、襲いかかった。
たちまち、三人を殴り倒し、
残る者が、逃げ出すと、
メロスは、さっさと走って山を下りた。
一気に山を駆け下りたので、
さすがに疲れてしまった。
しかも、午後の強い太陽の光で、
体が熱くなり、
メロスは何度も、めまいがした。
これでは駄目だ、と思いながら、
よろよろ二、三歩あるいて、
ついに、地面に座り込んでしまった。
立ち上ることができないのだ。
空を見上げて、くやしそうに、泣き出した。
……ああ、あ、
激しい川の流れを泳ぎ切り、
山賊を三人も倒し、
ここまで走って来たメロスよ。
本当の勇者、メロスよ。
今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは
情けない。
愛する友は、
おまえを信じたから、
やがて、殺されるのだ。
おまえは、人を裏切ったのだ。
おまえは、王が思ったとおりの人間だ。……
メロスは、自分を叱ってみたのだが、
全身から力が抜けてしまい、
もはや、芋虫のように、
地面をはうことさえできない。
メロスは、草原に、ごろりと寝ころんだ。
体が疲れ切ってしまうと、
心も弱くなる。
もう、どうでもいいという、
勇者に似合わない気分になった。
メロスは、あきらめ始めていた。
……私は、これほど努力したのだ。
約束を破ろうなどと思ったことはない。
神も私を見ていた。
私は、精一杯努力して来たのだ。
動けなくなるまで走って来たのだ。
私は嘘をつこうと思ったことなどない。
ああ、できるなら
私の胸を切り裂いて、
真っ赤な心臓を見せてやりたい。
私の体を流れる、愛の血を見せてやりたい。
けれども私は、この大事な時に、
疲れ果ててしまった。
私は、本当に不幸な男だ。
私は、きっと笑われる。
私の一家も笑われる。
私は友を裏切った。
途中で倒れるのは、
はじめから何もしないのと同じだ。
ああ、もう、どうでもいい。
これが、私の運命なのかもしれない。
セリヌンティウスよ、ゆるしてくれ。
君は、いつでも私を信じた。
私も君に嘘をついたことはない。
私たちは、本当に良い友と友であったのだ。
一度だって互いを疑ったことなどない。
いまだって、君は私を心から信じて待っているのだろう。
ああ、待っているのだ。
ありがとう、セリヌンティウス。
よく、私を信じてくれた。
それを思うと、たまらない。
信じることのできる友こそが、
この世で一番誇るべき宝なのだからな。
セリヌンティウス、
私は走ったのだ。
君をだますつもりなど、全くなかった。
信じてくれ!
私は急いでここまで来たのだ。
激しい川の流れを泳ぎ切ったのだ。
山賊に囲まれても、打ち倒し、
一気に山を駆け下りて来たのだ。
私だから、できたのだよ。
ああ、この以上、私に望まないでくれ。
放っておいてくれ。
どうでも、いいのだ。
私は負けたのだ。
だらしがない。
笑ってくれ。
王は私に、ちょっとおくれて来い、と言った。
おくれて来たら、身代わりを殺して、
私を助けてくれる、と約束した。
私は、王のひどい言葉を憎んだ。
けれども、今になってみると、
私は王の言うとおりに行動している。
私は、おくれて行くだろう。
王は、
満足そうに私を笑い、
そうして、私を自由にしてくれるだろう。
そうなったら、私は、死ぬよりつらい。
私は、永遠に裏切り者だ。
最低の人間だ。
セリヌンティウスよ、私も死ぬぞ。
君と一緒に死なせてくれ。
君だけは私を信じてくれるに違いない。
いや、それも私の勝手な期待か。
ああ、もういっそ、
悪人として生きてやろうか。
村には私の家がある。
羊もいる。
妹夫婦も、まさか私を村から追い出すようなことはしないだろう。
愛も、信用も、考えてみれば、くだらない。
人を殺して自分が生きる。
それが人間の生き方ではないか。
ああ、何もかも、ばかばかしい。
私は、醜い裏切り者だ。
もう、どうでもいい。勝手にしてくれ。……
メロスは、両手両足を広げて、
うとうと眠り始めた。