（６）
ふと、メロスの耳に
さらさらと水の流れる音が聞こえた。
そっと頭をあげて、
耳をすました。
すぐ足もとで、水が流れているらしい。
よろよろ起き上がって、見てみると、
岩の間から、きれいな水が静かに湧き出ているのである。
メロスは身をかがめると
水を両手ですくって、一口飲んだ。
長いため息が出て、
夢から覚めたような気がした。
歩ける。行こう。
体の疲れが回復すると、
わずかな希望が生まれた。
義務をやりとげる希望である。
自分を殺して、名誉を守る希望である。
傾きかけた太陽の赤い光を浴びて
木々の葉も枝も、まるで燃えるように輝いている。
日没までには、まだ時間がある。
私を待っている人がいるのだ。
少しも疑わず、静かに期待してくれている人がいるのだ。
私は、信じられている。
私の命など、問題ではない。
あきらめるのは、まだ早い。
私は、信頼に応えなければならない。
今は、ただそれだけだ。
走れ！ メロス。
私は信頼されている。
私は信頼されている。
さっきの、あの悪魔のささやきは、あれは夢だ。
悪い夢だ。
忘れてしまえ。
肉体が疲れているときは、
ふと、あんな悪い夢を見るものだ。
メロス、自分を恥ずかしいと思う必要はない。
やはり、おまえは本当の勇者だ。
再び立って走れるようになったではないか。
ありがたい！
私は、正しい人間として死ぬことができるぞ。
ああ、太陽が沈む。
ずんずん沈む。
待ってくれ、ゼウスよ。
私は生まれた時から正直な男であった。
正直な男のまま死なせてください。
メロスは
道を歩いている人たちを押しのけ、
黒い風のように走った。
野原で酒を飲みながら、騒いでいる人々の中を駆け抜け、驚かせた。
犬を蹴とばし、小川を飛び越え、
少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も速く走った。
旅人の集団と、すれちがった瞬間、
不吉な会話が、メロスの耳に聞こえて来た。
「いまごろは、あの男も、処刑されているよ」
ああ、その男、……その男のために
私は、いまこんなに走っているのだ。
その男を死なせてはならない。
急げ、メロス。
おくれてはならない。
愛の力を、いまこそ見せてやるのだ。
見た目など、どうでもいい。
メロスは、もう、ほとんど裸であった。
呼吸もできず、
二度、三度、口から血を吐き出した。
見える。
はるか向こうに小さく、シラクスの街の塔が見える。
塔は、夕日を受けて、きらきら光っている。
